2013年9月29日日曜日

アイアン・メイデン『パワースレイヴ』Iron Maiden, "Powerslave"

Iron Maiden, "Powerslave," 1984

イギリスのNWOBHMバンド、アイアン・メイデンの5枚目である。
このNWOBHMという略号、最初見たときは面食らったものである。いったいなんと発音すればいいんだ?それがNew Wave of British Heavy Metalの略だと知ったいまでも腑に落ちていない。もとの名前は良いとして、じゃあNWOBHMはどうやって発音するのか?私と同じ疑問を持っている人は結構いるのではないか…と信じたい。

さてボーカルの方はブルース・ディッキンソンが加入してから3枚目ということで、名実ともにメイデンのボーカルとして定着してきた頃といった感じではないだろうか。
楽曲は一曲目のAce's Highから飛ばしていき、ハイスピードチューンで全速力といった感じなのだが、ちょっと一筋縄でいかない部分もある。
それは楽曲の題材、というか歌詞である。アイアン・メイデンは初期のころからゾンビ(?)のエディをマスコットキャラにし、どちらかというとおどろおどろしい、ホラーフィルムのような世界観を構築してきたのだが、本アルバムはそれに留まらず、多彩な世界観を描いている。

一曲目「撃墜王の高揚(Ace's High)」、これは戦闘機乗りの歌で、スピットファイヤーということから第二次世界大戦が舞台か。アルバム版でカットされているが、シングル版では冒頭にチャーチルの演説が収録されているらしい。
二曲目「真夜中2分前(2 Minutes to Midnight)」は近未来、ゾンビとの戦いを謳った歌なのか?
三曲目「Losfer Words (Big 'Orra)」はインストゥルメンタル。題名はどういう意味?
四曲目「白刃の輝き(Flash of the Blade)」はドラゴンを追跡する少年の歌?ファンタジーなのかな?「聖ゲオルギオスかダヴィデか」と言っているけど、まぁこれは英語圏で「龍を殺す」と「巨大な敵を倒す」のイメージからの表現だろう。
五曲目「決闘者たち(The Duelists)」は前曲と雰囲気も似ており、割と続きものの感じで聞ける。「銃を選ぶか、剣で闘うか、武器の選択は終わった」と歌っているけど、銃が出てくるファンタジーもあるし。普通にアメリカ西部的なイメージで聞くのもアリだと思うが。
さて六曲目の「村への帰還(Back in the Village)」だけど、これ何の歌?歌詞を読む限りでは、村に戻って復讐する歌だと思うのだけど、状況がよく分からん…。曲自体はものすごくカッコいいのだけれど、「キッチンでのシェルショック、テーブルはひっくり返る」だのの歌詞を聞くと緊迫感が薄れてしまう。もしかして、おバカソングなのか?そんなことないと思うのだが…。誰か元ネタを知っていたら教えて欲しい。
七曲目「力の奴隷(Powerslave)」は前曲と打って変わって重々しいミドルテンポの曲。中東風の旋律に乗せて歌われる歌詞はエジプトのモチーフで彩られ、これが死に瀕したファラオの歌だろうと推察される。
教えてくれ、なぜ私が力の奴隷にならねばならぬのか
私は死にたくない、私は神なのだ、
なぜ生き続けることが出来ぬのだ?
生命の付与者が死ぬと、
周りのすべては荒廃する。
そして私の最後の時に、
私は死の力の奴隷なのだ。
本アルバムのジャケットとも呼応する、まさにタイトル・チューンに相応しい名曲である。
そして最後を飾るのが八曲目「老水夫の歌(Rime of the Ancient Mariner)」。これは13分を超える大曲であるが、それも当然、これはサミュエル・テイラー・コールリッジ(Samuel Taylor Coleridge, 1772-1834)の同名の詩を歌にしたものである。コールリッジの『老水夫の歌』は相当長い詩であるが、この歌のストーリは詩の要約版と言って良く、だいたい同じ内容を謳っている。結婚式の招待客のひとりに老水夫が自分の話を語り始める。彼はかつて航海のあいだにアホウドリを殺したことによって呪いを受けてしまい、船員たちが次々と倒れるなか、彼だけは生きながらえながら漂流し続ける。ついには海の怪物にも創造の神秘を見出し賛美を捧げたところ呪いは解け、水先案内人と隠者の船に救われる。それ以降彼は行く先々で自らの体験を話しているのだ「神の被造物はすべて愛すべきものである」。この話を聞かされた招待客は苦い体験をし、ひとつ賢くなるのである…。
 もともとの詩は英国詩においてかなり重要な作品らしく、1798年に出版された、この作品が収められている『抒情民謡集(Lyrical Ballads)』(ワーズワースとの合作)からイギリスのロマン主義文学が始まったという。詩はジェイムズ・クックによる二度目の南洋探検に着想を得ているとされている。幻想文学の祖のひとりでもあるような感じなので、こちらの方も詳しく調べてみたいが。
 アイアン・メイデンの歌に戻ると、さすがに13分あるだけあって、聞きごたえ十分である。メタル・バンドとコールリッジって、すこし結びつきにくいように思うが…。物語を謳う歌なので、曲の展開も二転三転し、もうこれはプログレと言っても過言ではないだろう。アイアン・メイデンは割と物語風の歌が好きだが、プログレ・バンドでもこれだけ長大な曲をしっかり作るのは少ないのではないだろうか。もちろんコールリッジの詩という、英語詩史上に屹立する名作の下敷きがあってこそではあるが。

アルバム全体としては名曲、佳曲が多く、いわゆる捨て曲はない、ように思われる。
前半のスピードチューンに始まり、ラストにタイトル・チューンの「Powerslave」、そして「Rime of the Ancient Mariner」という構成は実に素晴らしい。もちろん後半に行くに従って重くなっていく(最後の二曲で全体の40%近くのランニング・タイムを消費)ので、やや腰を落ち着けないといけないのが難点ではあるが。まぁべつにコンセプト・アルバム的に聞かなければならないわけでもないので、気に入った曲だけ聞くのでもまったく問題ないだろう。

2013年9月25日水曜日

ロバート・E・ハワード『影の王国(The Shadow Kingdom)』私訳(2)

 カルの唇のまわりに、むしろ嘲りと言うべき笑みがコッソリと現れた。
「それでは、私は行かねばならぬのか――ひとりで?」文明は彼に、揶揄をもって話すことを教えた。そしてピクト人の暗い目は輝いたが、返事をしなかった。「お前がカ・ヌのところからやって来たなど、どうやって知ることができよう?」
「私が言った」と不機嫌な返事。
「ピクト人が真実を語ったことがあるかね?」カルは嘲笑した。ピクト人が決して嘘をつかぬことはまったく承知していたが、こうやってこの男を怒らせるのだ。
「あなたのたくらみが見えましたぞ、王よ、」ピクト人は受け流した。「あなたは私を怒らせようとしている。ヴァルカにかけて、あなたはそれ以上言う必要はない!私は十分怒っている。私はあなたに一対一の決闘を申し込む。槍でも、剣でも、短剣でも、騎馬でも白兵でも。あなたは王か、それとも男か?」
 カルの目は、戦士が勇敢な敵に与えるべき、不承不承の称賛に輝いた。しかし彼はこの敵対者をさらに苛立たせる機会を逸しなかった。
「王は無名の蛮人の挑戦を受けぬ、」彼は嘲笑した、「それにヴァルシアの皇帝は大使の停戦協定を破りもせぬ。お前は行くがよい。カ・ヌに、私がひとりで来ると伝えるのだ。」
 ピクト人の目が残忍に光った。彼は原始的な血の衝動を必死になって抑え込みながら震えていた;そして、その背中をヴァルシアの皇帝に堂々と晒し、会見の間を横切り、大きな扉の向こうに消えて行った。
 ふたたびカルはオコジョの玉座に深く腰掛け、瞑想した。
 それで、ピクト人評議会の長が彼にひとりで来て欲しがっていると?しかしなんのために?裏切り?カルは残忍に彼の大剣の柄に手を触れた。しかし触れるか触れないかぐらいに。ピクト人たちは、どのような反目の理由にもまして、ヴァルシアとの同盟を重視していた。カルはアトランティス人の戦士で、あらゆるピクト人の宿年の敵かもしれない。しかし、彼はヴァルシアの王、西方の人々にとって、もっとも頼りになる同盟相手でもあるのだ。
 カルは、みずからを太古の敵の同盟相手にし、太古の友人の敵とした出来事の不思議について、長いこと考え込んでいた。彼は立ち上がり、せわしなく広間を横切った。まるで素早く、無音の獅子の歩みのように。友情の鎖、部族や伝統を、彼はみずからの野望を満たすために破ってきた。そして、海と大地の神ヴァルカにかけて、彼はその野望を実現してきた!彼はヴァルシアの王だった――消えゆく、堕落したヴァルシア、ヴァルシアはほとんど過ぎ去った栄光の夢のうちに生きていた。しかしそれでも、偉大なる大地、七帝国の筆頭であった。ヴァルシア――夢の大地、部族の男たちはそう名付け、ときにカルは、みずからが夢のなかに入り込んだのかと思った。彼にとって未知だったのは、宮廷や王宮、軍隊や人々の陰謀であった。すべてが仮面舞踏会のようであった。そこでは男と女が、甘い仮面のしたに、本当の考えを隠していた。とはいえ玉座の奪取は簡単だった――好機をうまくつかむ大胆さ、剣の素早い回転、民がうんざりし、その死を望んでいた暴君の殺害、宮廷でのけ者にされている野心的な政治家たちとの、短く、狡猾な計画――そしてカル、彷徨える放浪者、アトランティス人の追放者は、目のくらむようなその夢の高みに到達したのだ:彼はヴァルシアの君主、諸王の王であった。しかしいま、手に入れることは、それを保つよりもはるかに簡単なことに思われる。あのピクト人の眺めは、彼の心を若き日の付き合いへと引き戻した。自由で、粗野な少年時代の残忍へと。そしていま、茫漠とした不安、非現実の、奇妙な感覚が、最近そうであるように、彼のもとを訪れた。彼は何者なのか?海と山の率直な男が、太古の神秘主義に習熟した、奇妙で恐ろしく賢い民族を支配しているのは?太古の民族――
「私はカルだ!」彼は言った。獅子がそのたてがみを振りかざすように、彼は頭を振り仰いだ。「私はカルだ!」
 彼の鷹が太古の広間を眺めまわしていた。彼の自信は逆流した・・・そして広間の薄暗い隅で、タペストリーが動いた――ほんのわずかに。

ロバート・E・ハワード『影の王国(The Shadow Kingdom)』私訳(1)

『影の王国』


Wierd Tales, 1929年8月初出。

1.王が騎馬でやって来る


 喇叭がひときわ大きく鳴り響いた。まるで深い金色の潮流のように。まるでヴァルシアの銀の海岸へと打ち寄せる夜の潮のさざ波のように。群衆が叫んだ。銀の蹄の時を刻むようなチリンチリンという音がハッキリとしてくるにつれ、女たちは屋根から薔薇を打ち投げ、強大なる隊列の第一陣が、金色の尖塔を備えた荘厳の塔のぐるりを取り囲んでいる、廣く白い大通りに躍り出た。
 まず喇叭隊がやって来た。彼らは深紅に身を包み、細長い金色の喇叭を携え騎乗した、痩身の若者たちであった;つぎに射手。山岳地帯からの大男たちである;そしてそのうしろには重装の歩兵たち。彼らは揃えて、幅広な盾をガチャガチャ鳴らし、彼らの長槍は、その歩幅と完全に調子を合わせながら揺れている。彼らのうしろには、天下無双の兵士、赤殺兵たちが。彼らは兜から拍車まで赤い鎧に身を包んだ、壮麗な騎兵であった。彼らは荘厳に自らの駿馬にまたがり、左右に目を向けることなく、しかしあらゆる歓声に耳を傾けていた。彼らはまるで青銅の像のようであった。そして彼らの後方にそびえる槍衾は微動だにしなかった。
 それらの荘厳で恐るべき隊列のうしろから、傭兵の寄せ集め軍団がやってきた。彼らは獰猛で粗野な戦士であり、ムーやカー・ウから、また東の丘陵や西の島嶼からやってきた男たちであった。彼らは槍と大剣を帯びていた。そしてそこから幾ばくか離れたところを行進していた小さな集団は、レムリアの射手たちであった。それから国家の軽装兵たちが来て、そのうしろにはさらなる喇叭隊が待ち構えていた。
 勇壮な眺めであった。そしてこの眺めは、ヴァルシアの王、カルの魂のうちに獰猛な戦慄を引き起こした。王者たる荘厳の塔の正面に据えられたトパーズの玉座に、カルは座っておらず、勇壮な雄馬にまたがった、鞍上の人であった。彼は真の戦士王だった。彼の勇壮な腕は、主人が取りすぎるたびに上げられる歓声に応えて振られた。彼の獰猛な目は豪勢な喇叭隊を一瞥し、それに続く戦士たちにむしろ長く留められた;赤殺兵たちが彼の前で止まり、武器を打ち鳴らし、駿馬が後ろ足立ち、そして彼に王冠の称賛を捧げるにつれ、彼の両目は獰猛な光で赤く輝いた。その両目は、傭兵たちが横切るとき、わずかに細められた。傭兵たちは、ひとりも称賛を捧げなかった。彼らは肩をいからせながら、カルを大胆にまっすぐねめつけながら、にもかかわらず確かな審美眼を持ちながら歩いていた;獰猛な目を、瞬きもせず;野蛮な目は、毛羽立ったたてがみとぼさぼさの眉毛の下からのぞいていた。
 そしてカルは一瞥を返した。彼は勇敢な男たちには惜しみなく与えた。そして世界中探しても、いまや彼と絶縁した荒野の部族のうちにも、より勇敢な者はいなかった。しかしカルは、これらに優れた愛情を注ぐには、余りにも野蛮であった。多くの反目があった。多くはカルの国家の積年の的であった。そしてカルの名はいまや山や谷に住む彼の人民のあいだで忌み嫌われているといえども、そしてカルはそれらを彼の心から押し付けていたといえども、しかし古い憎しみ、太古の情熱はいまだに消え去っていなかった。なぜならカルはヴァルシア人でなく、アトランティス人だったのだから。
 軍隊は、荘厳の塔の宝石で輝く壁面の向こうに消えて行った。カルはその雄馬を操り、王宮に向かい緩速で進み始めた。彼は並んで進む司令官たちと閲兵式について語り合った。言葉少なに、しかし多くを語って。
「軍は剣と同じだ、」カルは言った、「錆びつかせてはならぬ。」そして彼らは通りを駆け下っていったが、カルはいまだ通りをうろついている群衆たちから聞こえる囁き声にまったく注意を払わなかった。
「あれがカルだ、見ろよ!ヴァルカ!しかしなんて王だ!そしてなんて男だ!彼の腕を見ろよ!あの肩を見ろよ!」
 そしてより邪悪なひそひそ声にも:「カル!はっ、異教徒の島から来た、呪われた簒奪者さ」――「ああ、野蛮人が玉座に座っているなんて、ヴァルシアはとんだ恥さらしだよ」…
 カルはほとんど注意を払わなかった。確かな手で、彼は太古ヴァルシアの腐敗した玉座を掴み、さらにしっかりとそれを握った。人間対国家だった。
 会議室の向こうには宮殿があり、そこでカルは太子や淑女からのかしこまった称賛の声に応えた。このような軽薄さへの残忍な愉悦を巧妙に隠しながら;それから太子や淑女たちはかしこまった退出の挨拶を述べ、カルはオコジョ皮の玉座に深く座り物思いにふけっていたが、ついに侍従が偉大なる王に発言の許可を求め、ピクト人使節団の到着を知らせた。
 カルは難航しているヴァルシアの国家建設という不明瞭な迷宮からその精神を連れ戻し、不満げにピクト人を凝視した。その男は、尻込みすることなく王に視線を投げ返した。彼は筋張った尻と、筋肉質な胸をした、浅黒い中背の戦士で、彼の種族の例に漏れず、鍛え抜かれていた。強く、不動な顔貌から、不屈の、計り知れない目が覗いていた。
「評議会の長、部族のカ・ヌ、ピクト王国の右腕が挨拶を申し上げる:「諸王の王、諸君主の君主、ヴァルシアの皇帝カルの御為、昇月祭の御玉席を設えて御座る」」
「宜しい、」カルは答えた。「旧き者カ・ヌに伝えよ、西の島嶼の大使よ、ヴァルシアの王は、月がザルガラの丘の上を漂うとき、御身とワインを痛飲しようぞ、と。」
ピクト人は動こうとしなかった。「私は王への伝言を携えています。しかし」――見下したように手を振りながら――「ここにいる奴隷どもには。」
カルは用心深げにピクト人を見つめながら、一声かけて随員を下がらせた。男は近くに寄り、声を潜めた:「今夜おひとりで祭りにいらっしゃいますよう、王よ。これが我が主の言葉でした。」
王の目は細められ、灰色に冷たく光る剣の鋼鉄のように輝いた。
「ひとりで?」
「左様。」
彼らは無言で見つめ合った。彼らのお互いの部族の憎悪が、外面上の取り繕いの下で沸き立っている。彼らの口は文化的な言葉を発し、彼ら自身のではない、高度に彫琢された民族の形式的な宮廷の文句を交わしていたが、その目からは根源的な野蛮さという第一の伝統が輝いていた。カルはヴァルシアの王かもしれない。そしてこのピクト人は、その王宮の使節かもしれない。しかしこの玉座の間において、二人の部族の男がお互いににらみ合っていた。獰猛に、油断なく。一方で野蛮なる戦いの幽鬼や世界に年旧りた反目が互いに囁き合った。
 王の方が有利であり、彼はそれを最大限に楽しんだ。顎を手の上に乗せ、彼はピクト人を見つめた。その男は青銅の似姿のように、頭を後ろに反らし、目を見開いていた。

2013年3月30日土曜日

吸血鬼(1932)

吸血鬼(1932)独仏合作
Vampyr

監督:Carl Dreyer
主演:Julian West
時間:73分

 1932年ドイツ=フランス合作映画。監督はオランダ出身のカール・ドライヤー。そしてほとんどのシーンは映画の舞台でもあるクールタンピエール(Courtempierre)で撮影されたという。また映画のキャストのほとんどは素人の役者で、プロなのは、領主を演じたMaurice Schutz、その娘で吸血鬼に蝕まれる役を演じたSybille Schmitzだけ。主演のアラン・グレイを演じたのはJulian Westとなっているが、それはこの映画の出資者であるロシア系貴族、Nicolas de Gunzburgの変名であり、つまりはパトロンがちゃっかり映画の主役をやっちゃっているのだ。自分で「お金は出すから主演させて」って言ったのだろうか。べつに演技はうまいわけでもないが、それほど演技力が必要とされる役でもないし、また全体の退廃的雰囲気によく合致しているので、結果的にナイスキャスティングだと思う。

 多くの吸血鬼映画がその原作に、ブラム・ストーカー『吸血鬼ドラキュラ』(1897)を据えている一方、この映画はシェリダン・レ・ファニュの作品集『鏡の中をおぼろげに(In the Glass Darkly)』(1872)を原作にしている。これは「第一コリント」13:12
βλέπομεν γὰρ ἄρτι δι' ἐσόπτρου ἐν αίνίγματι, 
というのも、我々はいままさに、鏡を通しておぼろげに見ているのだから。
を基にしている(原文では「中で」ではなく「通して」)。 ドライヤーはこの作品集のなかでも、とりわけ「カーミラ(Carmilla)」と「The Room in the Dragon Volant」を基にしているという。自分はこれら未読なので、どの程度の類似性があるのかは分からないが。

 この映画、そもそもストーリー自体が曖昧模糊としており、しかも撮影そのものが、カメラの1メートルほど前に薄いガーゼをかざし、それを通して撮られたため、画面全体がまるで夢の中にいるようにぼやっとしている。公開当初は悪評紛々で、ドライヤーのキャリアに甚大なダメージを与えてしまった。ヴェネチアでは、観客が返金を求めて暴動にまで発展するありさまだったという。現在はむしろ再評価の機運が高まっている。

登場人物


  • アラン・グレイ

  本作の主人公。彼がクールタンピエールの村を訪れるところから物語は開始する。特技は幽体離脱。領主の娘ジゼルといい感じになり、最後は村を脱出する。基本的には、それほど自己主張のない、「良い人」として描かれている。演じているのはこの映画の出資者ニコラ・ド・ギュンズブール(1904-1981)。フランス出身のロシア系ユダヤ人貴族。若くして映画の出資者になって主演するなんて、凄い人生である。その後はアメリカに渡り、雑誌編集などに携わったようである。ノーブルな顔つきとそこはかとないエロティシズムが漂っているが、彼自身同性愛者であり、この色気はその辺りも関係しているのかもしれない。


  •  領主

アラン・グレイが泊まっている宿屋に彼が訪れたことによって、話は動き始める。しかし、いきなり音もなく他人の部屋に忍び込むとか、この人も大概である。なんでそんなビビらせるような登場の仕方をするんだ!?しかも、意味深な会話を交わした後、「私の死後に開封するように」という包みを置いて去っていくし。初見では絶対信用されないような行動ばかりする。後にアラン・グレイが彼の館を訪れた際に、何者かに撃たれて死亡。映画後半には、自らの敵に復讐するために霊となって(?)一瞬だけ登場。元祖フォースの使い手?


  • ジゼル

領主の娘1。素人の役者で、演技自体は大したことなく、まるでマネキンのようにぎこちないのだが、映画全体の雰囲気と相まって、それ自体異様な雰囲気を醸し出している。叫びこそしないが、基本的に周囲の状況に翻弄されるだけの役柄。終盤誘拐され、監禁されるのだが、何とも言えない無機質なエロスがある。


  • レオーネ

領主の娘2。こちらが姉?登場シーンから寝込んでおり、領主のセリフから、これまでもたびたび傷を負っていた(吸血鬼に狙われていた)ようで、登場はベッドの中がほとんどである。「私汚されてしまったの…」と泣いたあとに周囲を見る目付きの異様さは、さすがプロの役者。最終的には吸血鬼の呪縛から解放されるのだが、そのときにベッドから起き上がる様子もすごかったため、セリフで「解放された」と言われなかったら、またなにか怖いことが起きるのかと邪推してしまった。


  • 医者

領主の館に訪れ、レオーネの看病をしている。一見いい人なのだが、吸血鬼の手下。ジゼルが「なぜお医者様は夜にしか来ないの…?」と召使に聞いたり、謎の老婆と一緒に登場して(これが吸血鬼)、毒薬の瓶を手渡されてニヤニヤしていたりと、いろいろ伏線はある。映画全体のストーリーが分かりにくいため、初見では気付きにくいのだが、初登場時から、実は吸血鬼と行動を共にしている。最後は製粉所のケージに閉じ込められて、上から落ちてくる粉(小麦粉?)に埋まって圧死。


  • 召使

領主の館に仕える、年老いた従僕。ものすごくいい人。しかも、実質この映画を解決した人。領主とその二人の娘に甲斐甲斐しく仕える、朴訥で善良な老人として描かれており、まぁ雰囲気だけの役柄なんだろうなと思っていたら、アラン・グレイが置き忘れた吸血鬼にかんする本(領主の遺品)を読み、吸血鬼の正体を発見し、吸血鬼の墓を掘り返し、退治する(実際に杭を打ち込んだのはアラン・グレイだが)。また、吸血鬼の手下の医者を製粉所に閉じ込め、圧殺するという、無慈悲な処刑も行う。彼がいなかったら、クールタンピエールの村は滅んでいたんじゃないだろうか。


  • 吸血鬼

吸血鬼、マルグリット・ショパン。吸血鬼と言えばドラキュラのイメージが強いなか、女性、しかも老婆の吸血鬼。昔クールパンティエールの村で大量の犠牲者を出したという。領主が遺した本にその事件について書かれていたおかげで、召使はマルグリット・ショパンの墓を突き止めて、その胸に杭を打ち込むことが出来たのだが…。あれ?そうなると、本に書かれていた退治法で実際に退治されたのは誰?あまり細かいことを気にしちゃダメか。医者と退役軍人の二人を従僕として使役しているが、かつては村全体を支配したにしては、なんとも限定的な影響力。

印象的な場面

この映画は雰囲気作りがきわめて巧みである。映画自体の統一感が物凄いのである。冒頭、宿泊した宿屋の壁に掛けられていたタペストリーをアラン・グレイが見るシーンであるが、おそらく「死を忘れるな(Memento Mori)」などをテーマにした絵画がまさに映画とマッチしている。

同様に、アラン・グレイが泊まった宿屋で、二階から不明瞭な声が聞こえてくると思い、様子を見に行ったところ、扉から現れるのがこの老人である。この異様な雰囲気!アラン・グレイもビビりまくって部屋に鍵かけたりしていたが、のっけからこれとは、掴みが強烈である。しかしこの老人、このシーンだけの出演で、基本的に雰囲気要員。

館に行く前に、アラン・グレイが迷い込む城も幻想的な雰囲気を醸し出している。とくに影の使い方がとてつもなく上手い!ここでは退役軍人がベンチに座っているのだが、実は彼の横に座っている影、彼とは別に独立して動いているのだ。その後もダンスシーンが流れるのだが、それも踊っている影が延々と映されるだけ。白黒という映画の特色を最大限まで活かした手法だと思われる。

吸血鬼に襲われたレオーネがシクシク泣き出して、ジゼルたちが心配して覗き込んでからの…この顔!ああ、取り込まれたんだ、と観客に説得するだけの表情である。この時点では、おそらく大方の観客は「これはもう助からないな…」と思うだろう。

有名なシーン。幽体離脱したアラン・グレイが自らの埋葬シーンに直面するという幻想的なシーン。しかしこのシークエンス、普通に物語のメインストーリーの中に組み込まれているので、これ自体夢なのか、それとも現実なのかがハッキリしない(まぁ現実だったらわけわからないことになるのだけど)。1932年の時点で、このような半透明処理が出来たのか、というのも驚き。

誘拐され、監禁されているジゼル。この姿のまま微動だにしない。この人間性の無さ(役者が素人で苦悶の演技が出来なかっただけ、という可能性もあるが)が、ジゼルという役柄に無機質なエロティシズムを付与している。

最終的に脱出して、二人ボートに乗るアラン・グレイとジゼル。この後彼らは岸辺に着いて、それから森の中を抜けていくのだが、その向こうには光が差しており(映画内の時間としても、夜明けが来たということの表現?)、二人の未来にたいする希望が示唆されている。霧のなか、彼方から聞こえてくる声に「アロー」と応える二人の姿は幻想的で美しい。

しかし映画の最後を飾るのは、吸血鬼の手下の医者。彼が窒息死するところで映画は終了するのだ(このシーン自体はそのちょっと前)。惨劇から脱出する、二人の未来に満ち溢れたシーンではなく、製粉所で圧死する敵の死のシーンで映画を締めくくるドライヤー監督の手法は面白い。単なるハッピーエンドではなく、その裏に潜む残酷さが強調される形になっているように思われる。この辺りも、単純なハッピーエンドを好む観客からは余計に思われたのかもしれない。

2013年3月23日土曜日

吸血鬼ノスフェラトゥ(1922)

吸血鬼ノスフェラトゥ(1922)ドイツ
Nosferatu: eine Symphonie des Grauens (Nosferatu: A Symphony of Horror)

監督:F. W. Murnau
主演:Max Schreck
時間:94分(版によって違いあり)

 1922年、ドイツ表現主義映画のひとつであり、ホラー映画の元祖のひとつでもある『吸血鬼ノスフェラトゥ』。どのような映画かと思ってみたら、なんとブラム・ストーカー『吸血鬼ドラキュラ』とほぼ同じ。同じドラキュラをモデルにした映画だと、トッド・ブラウニング監督、ベラ・ルゴシ主演の『魔人ドラキュラ(Dracula)』が存在するが、こちらは1931年。よって、この『ノスフェラトゥ』が実は世界最初のドラキュラ映画と言えるのかもしれない。
 なぜドラキュラという名前でないかというと、権利関係の問題らしい。原作者ブラム・ストーカーの遺族の許諾が下りなかったため、名前や設定、展開をいくつか変えてなんとか映画化にこぎつけたとか。ブラム・ストーカーが亡くなったのは1912年なので、まだまだ彼の直接の親族が生きていた時代なので、無理やりというわけにはいかなかったのだろう。
 製作の経緯は、Prana Film(『ノスフェラトゥ』一作のみの制作会社)のAlbin Grauが第一次大戦時、東欧の農民から聞いた不死人の伝説を基にした映画を作ろうとするところから始まる。ちょうど1897年に出版された小説『吸血鬼ドラキュラ』に目を付けたPrana Filmは、脚本家のHenrik Galenに、原作使用許諾を得ないまま脚本を発注。で、結局許可が得られなかったので、なんとか細部だけチョコチョコ変えて制作したということのようだ。なので、基本的なプロットや登場人物は、『吸血鬼ドラキュラ』とだいたい同じである。

登場人物


  • フッターとエレン

ヴィスボルクの街に住む夫婦。『ドラキュラ』においては、フッター=ジョナサン・ハーカー、エレン=ミナ・ハーカーである。物語はこのフッター(不動産屋)が、雇い主のノックによって、オルロック伯爵のいるトランシルヴァニアに派遣されるところから始まる。そのため、物語の狂言回し的な役割である。
エレンは『ドラキュラ』のミナと同じく、吸血鬼に狙われる役割。しかし、最終的に幸せになるミナと違い、エレンは悲劇的な最期を遂げる。自らの身を犠牲にして吸血鬼を倒そうとする強い女性。
しかし、このフッター、なんとも言えず間抜けである。物語の性質上、フッターが状況を良く理解しないでホイホイ動いてくれなかったら話が進まないので仕方ないのだが…。なんとも間抜け面で締まらない。
ちなみにミナ・ハーカーはアラン・ムーア原作のコミック、The League of Extraordinary Gentlemenの登場人物としても活躍している。


  • ノック

フッターが働く不動産屋のオーナー。『ドラキュラ』におけるいくつかのキャラクターを複合した人物である。オルロック伯爵がヴィスボルクの街に引っ越すための手引きをするということで、不動産業者でジョナサン・ハーカーの雇い主、ピーター・ホーキンズでもあるし、精神病院に入れられている吸血鬼の手下という点からすると、レンフィールドである。このように複数のキャラクターを組み合わせているため、このノック、どうにも支離滅裂なのである。オルロック伯爵をヴィスボルクに呼び寄せようとするのだが、最初の登場シーンで魔術の呪文が書かれた手紙のようなものを読んで邪悪な笑みを浮かべているため、最初っから吸血鬼の手下ということになる。しかしオルロック伯爵が近づくにつれ、その影響で精神に異常をきたし、精神病院に収監される。最後は逃げ出して、街中を市民たちと大捕り物を演じるのだが、また捕まって牢屋のなかに逆戻り。この脱走劇って、オルロックにとって何か利益があったの?しかも手下なのに、主人が近くに来ると精神がおかしくなるなんて…。爺さんなのに、驚異的な体力を有する。


  • ハーディングとその妹

トランシルヴァニアに行くフッターが、妻のエレンを預けていく相手。フッターの友人で、裕福な船主らしい。基本的にはわき役である。『ドラキュラ』ではハーディングがアーサー・ホームウッドで、妹がルーシー・ウェステンラ。『ドラキュラ』では婚約者だったが、『ノスフェラトゥ』では兄妹という設定に変更されている。90分の映画ということで、余計なドラマを省くための設定変更だろうか。フッターからの手紙を、浜辺でたたずむエレンのもとに持って行ったりと、彼女を甲斐甲斐しく世話している。二人でゲートボールのようなものをやっていたりと、兄妹仲は良好。吸血鬼の出番が少ない『ノスフェラトゥ』では、彼らは基本的にオルロック伯爵と絡まない。後半ヴィスボルクの街にペストが流行した際、妹がペストにかかっているような描写があるが、その後は不明。なんで兄妹にしたかなぁ?普通に夫婦でも問題なかったように思うんだけど。

オルロック伯爵
言わずと知れたドラキュラである。言わばタイトル・ロールなのだが、こちらの題名は『ノスフェラトゥ』。まぁ『オルロック伯爵』だとなんの映画か分からないしね。(ノスフェラトゥでも当時のドイツの観客は分かったのか知らないけど)。一般的にドラキュラというとベラ・ルゴシやクリストファー・リーのイメージが強いため、このマックス・シュレック演じるオルロック伯爵、異端のように見えるかもしれないが、実はこっちの方が先。しかも原作でのドラキュラ伯爵はオオカミのような乱杭歯とか書かれており、別に美男子という設定はとくにない。なので、このオルロック伯爵の解釈も、問題ないのである。
トランシルヴァニアの古城からドイツのヴィスボルクに行く(『ドラキュラ』ではロンドン)という流れ自体は同じだが、このオルロック伯爵、ヴィスボルクに着いてから自分で棺桶を家まで運ぶなど、結構アクティブである。しかも、エレンの血を吸っているうちに朝になってしまっているのに気付かず、朝日を浴びて消滅と、結構情けない死に方。まぁこれは、「処女が吸血鬼をして、雄鶏の鬨の声を忘れさせるというのが、唯一の助かる道」という記述を読んだエレンが、自らの身を挺したから、ということなのだが。朝日を浴びたらダメなんだったら、その辺りは注意していて欲しいものである。
ヴィスボルクに向かう船でも、乗組員を全員殺してから、魔術で船を高速で動かすなど、さまざまな能力を持っているのだが、いまひとつ強そうな感じがしない。
彼の存在はペストと強く結び付けられていて、作中でも、オルロック伯爵によって殺された者はペストによって死んだとされ、それが後半のペスト騒ぎにつながっていく。作中の舞台は1838年ということだが、血を吸われて死んだかペストで死んだかどうかぐらい分かるだろ?これは、そもそも東欧の吸血鬼伝説が伝染病と関連して語られていたということと関係しているのだろうか。


  • ブルヴァー教授

食虫植物の研究をしているブルヴァー教授。『ドラキュラ』におけるヴァン・ヘルシング教授に相当。しかし、単体映画にもなったヴァン・ヘルシング教授と違って、このブルヴァー教授、はっきり言っていてもいなくてもどっちでも良いんである。なんせ、フッターがブルヴァー教授を呼びに行って、エレンのもとへ戻ってみたならば、オルロック伯爵はすでに朝日を浴び灰になっており、エレンは虫の息、フッターの胸の中で息を引き取るのだから。このブルヴァー教授、なーんもしてないのである。そのくせ、最後はブルヴァー教授の深刻そうなきめ顔でラスト。登場自体は中盤であり、いきなりの登場というわけじゃないんだけど、その登場シーンでも、延々と食虫植物のことを解説しているだけで、本編のストーリーにまったく絡んでこない。「ほぉ、食虫植物の性質から吸血鬼の弱点とかを調べるのか」と最初は思うが、その話はそこで終わり。あとに全然響いてこない。字幕では「Paracelsian」と説明されているが、パラケルスス学者?つまり錬金術師ということだろうか?いかにもドイツっぽい設定だが、設定倒れで本編にまったく活かされていない残念な人物。

印象的な場面

最初トランシルヴァニアに到着したフッターが宿屋で「オルロック伯爵のところへ行くんだから、はやく夕飯もってこい!」と言うと、みんなギョッとした顔。明らかにオルロック伯爵を恐れている。宿屋の主人は「夜は外出しちゃいけません。人狼が出ますよ」と警告し、フッターも納得がいかないながらその忠告に従い、その日は宿に泊まるのだが、その後のシーンで出てきたのがこれ。オオカミ…なのか、これ?前足のあたりに縞々の模様があるんだけど、あまり大きそうには見えない。ヨーロッパのオオカミってこんな感じ?

ヴィスボルクに到着したオルロック伯爵が、購入した空き家まで自分の棺桶を運んでいく。もちろん夜中なのだろうが、当時の撮影技術上の制約で仕方ないのだろうが、明らかに昼間の撮影なため、ものすごくシュール。昼間誰もいない街をトボトボと自分の棺桶を担いで歩く伯爵。DIYの精神に満ち溢れている。港に着いたらもう一度棺桶の中に入って、そのまま郵送してもらえばよかったのに。船員全員殺しちゃうから、こんな面倒なことしなきゃダメな羽目になってしまうんだと思う。というか、ノックは召使なら、このタイミングで脱獄して、ご主人さまの棺桶運ばなきゃダメだろう。配下に恵まれないオルロック伯爵。

群衆から逃げるノック。こいつ結局なにがしたかったのか…。オルロック伯爵のもとへ行こうとしたが、結局阻まれたってこと?ペストが蔓延という記事を見て脱獄を決行したので、彼なりの目的はあったのだろうが、意味不明である。途中からは「ご主人様…!」しか言わなくなるし。急激なIQの下がりようである。結局前半と後半で別人を組み合わせてるからこんな悲劇が生じたわけで、ノックはシナリオの犠牲者とも言える(もう一人は、見せ場を全部削られたブルヴァー教授)。で、狂ってからのノックだが、この身体能力がものすごい。ペストの原因の犯人捜しに疑心暗鬼になった住民に追いかけられるのだが、ご覧のとおり屋根の上に上っている。しかも、その後も裏に回って屋根から降りるなど、ものすごく身のこなしが軽いのである。身体能力が高いのにバカだから、その能力が全然活かせていない。住民と追いかけっこを繰り広げただけで、結局また捕まってるし。オルロック伯爵はこいつの教育を何とかするべきだった(前半の普通の知能から後半の狂人化への落差が激しすぎ。もっとバランスを取らなきゃ)。

エレンの血を吸うオルロック伯爵。この映画は白黒であるが、その白黒という性質を最大限活かした影の使い方が素晴らしい。影といえば、エレンのもとに忍び寄るオルロック伯爵や、怯えるエレンの体に覆いかぶさるオルロック伯爵の影などのシーンが有名だと思うが、このシーンも素晴らしい。暗闇の中に浮かぶオルロック伯爵の禿げ頭と指。エレンの顔の辺りは陰になって見えないというのが、また想像力を掻き立てる。このシーンはランプという光源があり、また陰影を際立たせるため、窓の外は暗いのだが、先にも挙げたように、その他の屋外シーンは昼間なのがモロバレなので、興が削がれること甚だしい。
朝日を浴び消滅するオルロック伯爵。乙女の生き血を飲むのに集中しすぎていて、雄鶏の鬨の声を忘れてしまい、そのまま消滅してしまう。そんな忘れるものか?しかも夜中から明け方までって、いったいどんだけ血を吸っていたんだ?もしかして一度に少量しか飲めないのだろうか。そういえばなんだか小食っぽいし、もしかしたらオルロック伯爵、食が細いのかもしれない。もしこの吸血鬼が大食いだったら、夜中のうちにとっとと全部血を吸い終わって、隠れ家に帰っていただろう。しかしこのシーン、どうしているのか分からないが、1922年でもこのような特殊撮影が可能だったんだ、と驚く。まぁ静止画で見ればすごいのだが、動画で見ると一瞬で消えてしまって、なんとなく物足りないのも確か。もっと長尺で見せてくれれば、クライマックスの盛り上がりがもっとあったのではないかと思う。

2013年3月19日火曜日

Devil Doll, インタビュー要約(8)


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  • Devil Dollにはさまざまな音楽の影響が見られるが、それでもDevil DollはDevil Doll以外の何ものでもない。実際、Devil Dollのアルバムは同じことを繰り返していないのでは?
 Devil Dollは、Mr. Doctorの忠実な鏡であるため、いかなる音楽ジャンルにも属していないという。それは映画でも、模造品でも、装飾でも、構造でもない。誰かを喜ばせたり、売り上げのためにやっているのではない。彼は恰好を取り繕う時間も興味もないし、そのようなことをする者たちを軽蔑するという。彼はつねに、以前の限界を突破しようとしている。もしメートル単位で創作しようとしたならば、彼はセンチメートル単位で創作出来ればと考えている。つねに新たな拡大鏡で感覚を再調節しようとしているのだ。決まったやり方に乗っかる危険は、Mr. Doctorに無縁である。彼はつねに嬉々として困難を受け入れているのだという。

  • 現在どのような音楽を聴いているのか?
 Mr. Doctorは現在テレビを持っていないし、新聞も雑誌も読まないため、最新の音楽事情が分からないという。しかし彼の手許には40,000枚のレコードがあり、この惑星(ほかの惑星も)のあらゆる場所からの刺激的な音楽を発見しようとしている。プロダクションの価値や、テクニックの巧拙はそれほど重要でなく、素晴らしいアイディアはしばしばもっとも遠く離れた場所で撮られた無名のレコードのうちに見出されるという。

  • つぎの活動は?また音楽活動をするのだろうか、それとも違うジャンルに移るのだろうか?
音楽とDevil DollはもちろんMr. Doctorの核心であるが、ほかにも近年、Music for the Eyesという本(Bernard Herrmannの映画音楽の向こう側にある「化学反応」を明らかにしている)と、「聖書(The Bible)」と呼ばれる、イギリスのインディペンデント系音楽にかんする1200ページの本(1の二冊を出版した。また彼は現在、Fear of Music - Music of Fearという本(恐怖や不快感を催し得る、千以上もの音楽作品を分析している)に取り掛かっている。

完          

(1)この本は、Mr. DoctorことMario Pancieraが2007年に出版した、45 Revolutions (A definitive discography of UK punk, mod, powerpop, new wave, NWOBHM, and indie singles 1976–1979, Volume I)を指していると思われる(全1190ページ)。

Devil Doll, インタビュー要約(7)


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  • 『怒りの日(Dies Irae)』のリリース後、Devil Dollの活動を辞めたのは何故か?今後活動を再開する予定はあるのか?
 Mr. Doctorは『怒りの日(Dies Irae)』の直後、『怒りの日』のセッションから90分ぶんの音楽を取り入れたサウンドトラックを持つ二作目のサイレント映画の制作に取り掛かったという。しかしこの計画は、彼がJean Epsteinによる1928年のサイレント映画、『アッシャー家の崩壊』へのサウンドトラック制作に取りかかったため、中止されてしまった。このプロジェクトは録音されたが、彼がSlovenian National Cinematiqueとの協働と打ち切ることを決定したため、披露されることはなかったという。以来10年間、Devil Dollの曲を作曲し録音することは続けているのだが、Mr. Doctorはそれらをリリースすることに興味を失ったようだ。新たな作曲による驚きはいまだに作曲の主たる動機であり、休息は不要だということである。

  • Devil Dollは、プログレ、メタル/ハードロック、さらにはクラシックのファンまでも惹きつけている。これは素晴らしいことではないだろうか?
 メタル、ゴス、プログレ、クラシック、それがなんであれ、あらゆる音楽には特有の魅力がある。たとえば、メタルはエネルギーを、ゴスは雰囲気を、クラシックやある種のプログレは構造を強調しているように。しかしMr. Doctorによれば、本当に大切なのは、音楽そのもの、そして感覚を超越したその魔術的な力だという。音楽自体は、その文法にかかわらず、素晴らしいか素晴らしくないかである。問題はリスナーの感覚にあるという。聞きなれない、過酷な音楽へとその地平を拓くか、それとも彼が慣れ親しんだ無知の領域に留まるかは、聞き手しだいなのだ。古代ヘブライ語において、「愛」と「知」は同じ言葉であったという。というのも、きみは「知っている」もののエネルギーやバイブレーションしか、愛したり味わったり理解したり、それに満たされたりすることは出来ないのだから。多くの者たちは彼らの音楽的地平の狭さを隠そうとするが、Devil Dollが戦っているのは、いつだってこのような者に対してだという。